昭和45年03月07日 夜の御理解



 世の中には、色々な矛盾があります。信心をさせて頂いておりましても、矢張りその矛盾を感じる事があります。けれども本当の信心のまなこをもって致しますと、矛盾はないんです。まあ矛盾がない所まで、ひとつ信心を進めていかねばならん。それはそれなりにそうだと解らせて貰う信心にならなきゃいけない。まあ今日一例ですけれども、今日午後四時の御祈念おわってから奉仕させて貰いよりましたら、光昭がここへ出て参りましてからこういうお届けをするんです。
 先日からのテレビで何か、申込みをいたしますと抽選であたって、何か行けれるなんか入場券が送ってくるというわけなんです。あれはやはり金光教の教会の息子さん達が、中心に成られて何か、バンドを作ってそのバンドが福岡の何とかという、ホールにやってくると言う訳ですね。ご承知のように光昭はあんな事が、大変自分が好きですから、申し込んでおったらしいです。
 そしたらそれがあの当選して入場券を送って来てるんですよ。「どうさせて頂こうか。」というから、「そりゃやらせて頂いたら良かろう。」と私が申しました。それからそれと又前後しましてから、こんな事丁度今日は、久原の教会から。是は久原の教会から来てるんですね。ここはもう日本一と言われるほどしの、ボーイスカウト、ガールスカウトが盛んなところで、もう一頃当時の小学校がほとんど参加するというほどしの、まあいうなら日本一の少年少女会で、有名な所なんですが。
 そこの設立があって二十周年になというので、何かその記念の式典と言った様なものがあるらしいんです。それでここにも少年少女会が出来ておりますから、各教会にまあ見にきてくれと言う訳なんですね。確かに大きくそういう少年少女会の結成なんかをする為には、大変参考になる事が沢山あろうとこう思うんです。それで私もほうそりゃあやらして頂いたらいいなと思いましたけれども、神さまにその事を、お願いさせて頂いたらですね。「行かんでもよかろう。」と言う事であった。
 まそん時はその場で下がって色々考えたら、いわゆる矛盾を感じた訳ですよね。自分もここで少年少女会のまリーダーとして、少しでも立派な少年少女会を造って行きたい。久原にはいわゆる日本一的な、立派な少年少女会があるのだから、その二十周年の記念の式典というものは、確かに参考のなる事が随分あるだろう。だから行きたいと自分が思っておるところへ、「行かんでもよかろう。」という。
 それからひょっとするとこの事は、親先生がそんな所には行くなと、仰ると思うてお届けさせて頂いた、その福岡のなんとかバンドを見にいくというのは、許されたと言う事でですね。まあ色々自分なりにまあ、あの人なりに考えた。どうもおかしい。例えばその。信心ではない、例えばその例えば音楽なら音楽を聞きにいくと言う事は、もう行くなとおっしゃりゃ行くまいと思うておったけれども。
 久原のほうの少年少女会のそれは、どうでも行きたい又それは、信心だとこう思っておったんだけれども、そこに矛盾を感じたんですね。だからまた出て来てから、「僕はこう思いますがどういうわけでしょうか。」と、こう言う訳なんです。で私は「そうだねえ。そういう矛盾をもって、それを段々後々解って、親先生がああ言うたと言う事の、訳が解ったら、それでいいだろうと。
 人間は誰でも楽しみがなからなけりゃいけん、だからならまあ今例えば光昭なんかは全然、もうテレビを向う三年見ないというて修行しよりますから、どんなに好きな事があってもテレビはぜったい見ませんのです。ですからそういうならまあだ、二十歳ぐらいの青年が、テレビも見らんという修行しよるという。大体自分でそのああいう自分達でもバンドを作ってやると言う位ですから、好きなんですから。
 見たくもあろうけれども、そういう言うならば、窮屈な修行ですねいうならば。是は余談ですけれども、信心させて頂くならばね。どうでも矢張り少しは窮屈な修行しなければだめです。野放図になるです。信心が。ね。だから出来るだけ。特に例えばお道の御用に立たせて頂こうと言う様にな人達は、取分けですね窮屈な修行を本気でさせて貰わなければ。何故ってこの畳半畳のなかに、入ってしまわなければならんですからね。
 その修行を本気でしとかんと、その時がだれてくるです。そういう意味合いで、言わば末永さんなんか、あれはその点見事ですね。自分も愈々ぎりぎりな、窮屈な所に入れていこうとしておるですね。でそこん中から本当の信心を求めていきよるわけなんですが。例えば是は余談でしたけれども、光昭なんかもまあ色々、将来お道の御用に立たせて頂かにゃならんというので、そういう修行もやっぱりさせて貰いよる。
 そこでなら神さまはね。そう言う事ばっかりを願ってもおられない。たまには息抜きもよかろうたまにはおやつも下さる。第一自分がその当選するかしないか解らんけれども出すと言う所に、まあ当選したら行きたいなという心があるのですから。そりゃ親神様も喜んで下さる、おやつの様なもんだからそれは、やらせて頂くのが本当だろうねと、私は言ったんです。そうすると是はまだ他に色々意味もありますけれども例えばね。
 ここにはここの生き方があるのですよ。信心の。いうなら少年少女会なら少年少女会でも、ここの場合なんかは、やはり少年少女会なりの信心があるのです。だからそう言う事を言うと一般の少年少女、ボ─イスカウト結成なんかの場合は信心というものを、あまり匂わせたらいけないと言ってるんですよ。所が私はそうじゃない。だからここでは日曜、日曜にああして信心の集いを、少年少女会のをやってそれこそ、大人も顔負けする様に、一生懸命なご祈念会なんかもやっておりますしまた。
 その後はよりより信心の共励までやってる位ですからね。だからそれが合楽の生き方であって、ただ伊達や酔狂に金光さまと言うとるのではないというものを、見つけていこうというものが合楽の生き方。そうすると久原あたりの場合はそうじゃないのですから、例え見て来てそれを真似してと言う事になったら、いわゆる是は猿まね的なもの。少年少女会が出来上っちゃあ駄目だと私は思ったから、行かんが良かろうとこう言うた。
 だから聞いてうかごうてみればその成程と合点がいくのですから、大体は矛盾はないのです。けれども矛盾があるかのように見えるだけ。随分おの教典をひもときますと、教典の中にも矛盾を感ずる様な御教えが有りますよ。乙の人には右と仰り、甲の人には左と仰っておられますからね。けれどもよくよく解らせて頂くと、それはひとっつも矛盾じゃないです。信心の程度過程に応じて、解いてある事でございますからね、矛盾じゃあないですけれど、私共が日常生活のなかにもね、そういう矛盾があります。
  今日もまだお供えしなければならない、ケ─キがあったんですよね。それを今日もうみんな切ってあるから、だれが切ったかと言う事になった。そしたら栄四郎が切ったらしいんですよ。そしたら皆が言う事が、「もう家はお神様にお供えさせて頂いてから、ケ─キでん、なんでんコチコチするごとならにゃ食べられん。」と言う訳なんです。それけんもうおいしい時に食べなければ、勿体ないと、皆でそう言うんですが。
 私の生き方は。ね。コチコチ位なって丁度良うはないかって私は言うんです。だから私は昨日思うたです。昨日本当に頂いたばっかりの、御霊様のお下がりの最中、もなかを頂いた。そこの浮羽郡で出来るもなからしい。そりゃもう始めて食べたと言う様に瑞々しい美味しいもなかでした。ここの中があんこがカチカチなるんですよね。いつも矢張り月次祭から、月次祭までお供えしてそしてそれを又直してあるもんですからね。
 けれどもそれでも結構美味しいです。だからねなんでも最高なんて言う様なものを頂く様になると人間はおしまいになるよ。だからさあここで頂いて下さいと、わざわざ皿についで来たものは、「いいや是は、コチコチになるまでなおしとこう。」なんて言わんでよかけれども。(笑)けれどもね。例えば神様がまず、瑞々しい所美味しい所をあがって頂いて、そのお下がりを頂く位で、それでちゃあ家はまあだまあだ普通の家庭からいうなら、勿体ない位な、おまかないを頂い取るんだから。
 そこんところは皆んなが解らなければいけないねえ。と言うとですねえ。わかるんです。やはり。ですからねその私はいかにも矛盾な事言っている様であるけれども、そう云うじつは、ひとつも矛盾なことじゃない。それの方が本当なことなんだ。だから本当な事がわかるとね。わかると、ああそうだなあと、それが有難いことだなあと、例えば言う様なもの。これはもう不思議なんです。
 私共これは。今日もお茶がゆさんに、ほんのお漬物だけで、お食事させて貰ったんですけれども、もう本当に、そういうときにはね。ね。例えば言うなら、コチコチしたのが美味しくないじゃあない、コチコチしたのが却って有り難いのです。コチコチするまでもこうして余裕があると言う事はね、とてもこげな有難い事はないです。ですから本当に、醤油一滴だって、おそまつにゃあ出来ないなあ、いやその中に本当にしみじみした信心の有難さを感じる事が出来るのすから。ね。
 美味しいものを、腹一杯食べて、腹こわしたというようなことは、決してよかことじゃあないと。けれどもね。皆んながそれを言うんですけれどね。私の心がわからんのも、まあ本当に。まちっとわからにゃいけんなと思うようなことが、いくらもあります。とくに、修行生の方たちの場合なんか、それを感じるんですけれどね。折角信心の稽古をするんなら、折角お道の先生にでもなろうかというて。
 意欲しておる人がですね。そんなことでどうするかと。まあ言いたいこともたくさんある。それには、もう少しね、私の信心の内容に、いわば肉薄してこなければならない。そしてわからんなら、きょうの光昭じゃあないけれども、「ぼくは、わかりません。」と、追求してこなければいけない。でそこからですね、なるほど、私が矛盾のようなことを言っておるようにある、
 または、無理なことを言うておるようにあるけれども。なるほどあれは本当だとわかってくるんです。ね。だから信心はどこまでも、本当から、本当を追求していくのだからね。ひとつ、もう、矛盾のない社会、矛盾を感じんですむ信心、そういう願いのもとに信心を。まあ、矛盾を感ずるなら、まあだ、まあだ自分が本当のことがわかってないからだと、悟らなければいけんと思うですね。
   どうぞ。